昭和40年12月07日 夜の御理解



 お道で言う、神様におすがりをすると言う事は、そのまま、天地の働きにすがることであり、願う、頼むわけであり、または、それに、働きにゆだねることである。いわゆる、任せることである。神様におすがりをすると言う事は、そういうことだと私は思うのですね。お互いあれもこれも成就、あれもこれも成就というかその、物事がひとつひとつこの、スムーズに整うていくということ。
 こちらはおかげ頂いたけれども、こちらの方がおかげ頂いてないと、いわば人間と身代と、または達者と言った様なものが、ちぐはぐになってはならんと。あれもこれもが一様に、それはそれの信心なりに、こう足ろうて進んでいくというおかげを頂くということ。ところがその、足ろわないというのは、どういうようなことかというと、私は、大地に根を下ろしたような信心をしないからじゃないかとこう思う。ね。
 大地に根を下ろしたような。大木が例えば大地に根を下ろしたような信心。もう沢山のこう、根があります。沢山の根がこう四方に根を張ります。その四方のどこからでもです。その幹を育てるための吸収ということをやるわけです。こっちのほうはいやというて、もう、こちらのほうが吸わなかったら、ここの根は枯れてくる。枯れてくるかそこんとこだけは、枝が枯れてくると言った様なことになるのじゃないでしょうか。
 片一方のほうは、こう栄えとるけれども、片一方のほうは、枯れてきておると、いうような事ではいけんのでしょう。ね。一つの木が一様にこう、繁盛のおかげを頂かねばならん。ね。枝も栄える葉も茂るというおかげになっていかなければならない。為にはねその大木が、その自分の周囲の一切から、それを吸収するという、この働きというものが、なされなければ、足ろうたおかげになってこないとこう思う。
 私は先ほども思ったのですけど、何時もご本部参拝さして頂く。もう私がお参りする時には、必ずお参りをすると言っておった人達が、今度金銭の都合の悪いからとかまだ、麦播きがしまえてないからとか、あの事情があるからこの事情があるからと言うてその、お参りを渋る。ね。これなんかはほんとに実を言うたらね、そのうそれでもう駄目なんです。もう、お参りすることに、本当に決めておかなければ、ね。
 それでも、金銭のお繰り合わせが頂けない。それでもこの事情がどうも覆いかぶさって、来た様な事情がここにあると。そこを私はお取次ぎを頂かねばいかんと思う。もうお参りをするということは、決めておかなきゃいかん。そして願わにゃいかん。私達がおかげを頂いてきたのはね、もうこの辺がみんなと違うとったと、こう思うんです。都合が良かれば参るとか、それが悪るかれば参らない。
 成程お礼参拝だから、何もかにもおかげを頂いてお繰り合わせを頂いたからお参りするのではありますけれどもです。その参りを一つの修行としてです、ね。ご本部参拝には親先生がおいでになる時には、もうどこにでも御供させて頂こうと、ご本部参拝には特に、是は絶対おかげを頂こうというふうに、この思い込み決めこんどかにゃいけん。けども事情がある事情があるところを、お取次ぎいただいて御願いしておく。
 それがそのそう言う様な思いが出来ないと言った様な事情がですたい。起こって来ると言う事がもう既にです。私はこのなぜその様な事になって来る、御参りが出来無いのかというとやはり私共が日頃です、あらゆるところから、あらゆる角度からです。どの様な事の中からでも、信心の滋養になるというものを、私共が吸収していないからだとこう思うお道の信心はです、どういう事の中からでもです。
 どういう事のなかからでも、もう私はこげな修行しよるけん、そこからだけ信心の徳を受けよう。それじゃ徳は受けられんです。円満な徳というのは、そげなものじゃないです。だから、例えば家庭なら家庭でですたい。ね。様々なその事情が御座います。家庭の問題、人間関係というのがありますけれどもです、ね。この関係においてだけは、もうそれを絶ってしまう。
 だからそこだけから吸収する事が出来ないからもう、いわば、まるいのが、もう、そこだけ欠ける。ね。儲けることだけは有り難いけど、そらそのことには、いわばもうそれを、いわば不平不足で受けるというと、もうそこから、吸収されるところのものが、もう、かげる。損しても、得しても、得した中から、損した中からきゅうしゅう出来れる道を教えて下さるのが信心。
 人間関係でもそうです。修行でもそうです。私はこげな修行しよるから、そこん修行のとこんだけからは、吸収をどんどんする事は出来るだろうけれども、こちらのほうからは、ぱぁっと抜けていきよるなら、やはり滋養はこちらから取りよっても、こちらの方からそれを返やす様な事をするなら、それは本当の働きにはならないし、本当の繁盛ということの働きにはなってこない。
 円満ないわば足ろうたおかげになって来ない。ね。もう私共は日常茶飯事の中にも、どういう事の中からでも信心な頂こう。するこの吸収力というものがですね、旺盛でなからにゃいかない。そこから一つの私は例えば、ご本部参拝ならご本部参拝でも、させて頂くもんだとこう決める。だから足ろうた、万事の上にも送り合わせも、頂けて来ると言う事になるんです。
 どこまでもですね、私はお道の信心は、その自分の周囲の一切の事の中から、それを自分の信心というか、自分の心というものを育てていくところの、御徳を育てていくということの働きというものを、自分の周囲の一切のものの中から、私はそれを吸収していこうとする意欲が、先ず大事だということ。天地にすがるということ。天地に頼む願うということ。まあ私はそういうことではなかろうかとこう思う。ね。
 神様どうぞ御願いしますと、おすがりをする。ね。お縋りをするならば、そのお縋りをしていることを成就するためにです。これを育てて行く事のために、これを本当のおかげにして行く事のために、自分のその周囲の滋養というものを、この範囲でです吸収して行かなきゃいけん。もう他のを取る訳にはいけませんから。やっぱり自分を中心とした、その周囲の中から。
 息子が言うこときかんち言うなら、息子が言うことをきかんという事のなかから、そこから吸収して行く。ね。その、商売で損をしたなら、その、損をした事のなかから、その、滋養になるものを吸収して行く。ね。もう本当に何事にも信心になれという事は、そんな事じゃないだろうかとこう、ね。何事の中からどういう事の中からでも、自分の信心を育てていくことの吸収。それは丁度大木が大地に根を下ろして、そして周囲の一切の中から、その木を育てて行くための、滋養分の吸収を取るように、ね。
 私共の、周囲の一切のものの中からです、それを吸い取っていく。をれは芽が出たばかりのもありましょう。もう一緒くたに育った、ね、もう一気に育ったといったようなものもありましょう。だから一気に育ったら一気に育ったで、やはり吸収する範囲はいわば、広いから有り難いのです。ということはそういう、例えば風当たりなら、風当たりもひどいということなんです。ね。
 だからこっちの方の、風当たりがひどいから、もうここは辞めたというなら、そこからは吸収することが出来ないことになるわけです。そしてそこから枯れてくる。ね。どうでも一つおかげ頂いてから、私共の周囲の一切から天地にすがる、天地に願う頼むとおすがりをするということ。同時に私共が精進をするということが、一つになって行かなければ、すがってもそれが本当の、おかげになって来ないと思うですね。
   どうぞ、おかげ頂かれますように。